2009年11月20日金曜日

エース論

以前にも元メジャーリーガー「野茂英雄」の話しは何度かブログに書かせてもらいましたが、私が好きな野球人の一人であります。

私も日本では、同じ世界にいましたが、リーグも違うし、勿論実績も全く違いすぎるので直接の接点は全くありませんが、私自身大変興味があるアメリカのスポーツビジネスに関する書籍等を観ても、様々な観点から「人間」としても評価が高く、表現は下世話ですが、当時のメジャーリーグの数多いプレーヤーの中でもトップ級の“タレント”でもあり、“商品”でもありました。

最近は、あまりメディアに登場しない同氏ですが、18日付けの日刊スポーツにコメント記事が掲載されていましたので、その一部を今日、明日と披露したいと思います。

「チームのエースであることとは?」・・・
「常に健康で、人間的にもプレー的にも常に尊敬できる存在」という気がする。「チーム内で認められているエースにあまり悪い人はいなかった。」と述べている。

最初からエースという投手はいない。そのピッチングの成長とともに、その過程での練習態度や、チームメイトとの接し方、そして、「勝ち負けという結果」で、周りから「エース」として認められ、チームに頼られるものだと言う。

更に「エースとは、チームに必要とされる存在であること。」その為には「常にマウンドでは堂々としてしていなければならない。自分が打たれても、チームがエラーしても、きわどいゲームでも、大差のゲームでも、いつでも同じ態度でいるのがエースだ。」とも述べている。

数多いメジャーのチームで投げてきた彼は、時にはエースとして、またあるチームでは超が付くほどの大エースとともにローテーションを守もってきた訳ですが、戦いや競争は相手チームだけではなく、自身のチーム内での競争もあるわけで、そういった日々の繰り広げられる競争や言動の中からチームに認められるものだけが、「エース」となって行くとまとめてある。

今思えば、「野茂英雄」は負ける姿も絵になったとコメントする方は少なくない、それは三振を取ってマウンドを降りて行く時も、打たれて降りていく時も「常にエースとして堂々としていたことと、彼の性格である。」それを最後まで“貫いたエース”だった。と記事は締めくくっている。

「常に堂々としていること。」今の自分に当てはめてみます。